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10月2日 国慶節の天府広場夜景―成都雑感〔83〕―2009年10月1日は、中華人民共和国建国60周年の、国慶節です。ニュースでもご存じのように、首都北京では天安門広場で軍事パレードを含む大イベントが行われました。ここ成都でも、60周年を祝いの飾りや催しもが街に見えます。そこで、成都市の中心である天府広場に夜出かけ、この風景をお見せします。
写真1は、広場の北中央に人民東・西路を隔てて立つ、ライトアップされた毛沢東像(1969年建立)です。
写真2は、広場右(東)に位置する東魚眼龍騰噴泉です。この地下に地下鉄1・2号の駅ができます。
写真3は、広場北にある成都市体育中心(総合グランド)から打ち上げられた祝賀花火を、広場左(西)の西魚眼龍騰噴泉越しに撮ったものです。この花火打ち上げは20時から約30分近く行われました。 なお、天府広場については、「天府広場新装オープン―成都雑感〔35〕―」(2007年3月11日付)で紹介しています。 9月26日 錦江夜景―成都雑感〔82〕―錦江は成都市内を西から東に流れる府河と南河(両川とも都江堰市で岷江の分流となる)の別称で、両川は市内東南で合流し、府河として黄龍溪を経て、眉山市彭山県で再び岷江と合流します。90年代に入り、汚染などで荒れていた両川を整備し、現在では、錦江は両岸に遊歩道公園などが設けられ、市民の散策の場として親しまれています。特に、一環路内主要部は夜間照明がなされ、橋共々ライトアップされるようになっています。そこで、望江楼公園から人民南路までの錦江夜景を紹介することにします。 写真1は、望江楼(「望江楼公園―成都雑感〔78〕―」2009年4月22日付参照)を上流北から川越しにとらえたものです。望江楼にはライトアップの設備がありますが、残念ながら平日(9月24日木)のためか光はなしでした。ですが、ちょうどこの日は、成都には珍しく、夜に入っても晴で、写真に見るように、楼の頭上に月が出ていました。
写真2は、一環路にかかる九眼橋全景を下流東南から撮ったものです。この橋の西北約3kmに市中心の天府広場が位置しています。ちょうど橋後景のビルの方向です。本橋は、1593(明万暦21)年、創建され、現在の橋は1988年建設のもので、長約120m・幅25mです。この橋の南岸に、20世紀半ばまで船着き場があり、楽山からの舟運の成都の窓口でした。なお、古橋にあった九つの橋脚間のアーチ型空洞から、この橋の名が来ています。
写真3は、九眼橋の西約300mにある安順廊橋を上流西から写したものです。本橋の創建が何時かは不明ですが、マルコ=ポーロの『東方見聞録』にこの橋の記載があり、歴史の古い橋です。現在の橋は2003年に新築されたもので、欄干・橋舗道が石造りで長81m・幅6mです。廊とあるように、橋上に楼閣が建てられており、現在、中華レストランなどが営業しています。ちょうど、この橋の上流で、北からの府河と西からの南河が合流し、合流点直前の府河上に合江橋が架けられています。また、安順廊橋上流南岸には、茶館があり、茶などの各種の飲料が楽しめます。ちなみに、撮影途中で、私は休みを兼ねてビール(ハルビンビール中瓶15元)を頼み、ライトアップした両橋と川辺を見ながらのどを潤しました。
この後、南河をさらに西へと上流に向かい、興安橋、復興橋(新南路)と過ぎ、人民南路へと歩きました。写真4は、南河の人民南路上に架かる錦江大橋を、上流南岸からとらえたものです。後景のビルは成都索菲特万達大飯店(ソフィテル成都 5星)です。ご覧のように、本橋は改修工事中(年末完成予定)で、照明設備が未完成です。ですが、橋の中央には国慶節をひかえて、お祝いの赤のぼんぼりが飾られています。この改修工事により、1958年建設の本橋は、長70m・幅50mが長80m・幅80mと拡張されます。車道路面本体の拡張工事は終了して利用可能になっています。
なお、今回の撮影はペンタックスK-7によるもので、すべて手持ち撮影(ノーストロボ)で、シャッタースピード0.4秒のもあり、手ぶれ補正機能のありがたさを実感しました。 6月8日 四川博物院(旧四川省博物館)オープン―成都雑感〔79〕―卒論指導が全員(6名)稿了となり、時間に余裕ができたので、5月9日にオープンした四川博物院に5日(金)行ってきました。 四川博物院は、2002年に閉鎖された四川省博物館(人民南路四段)が移転し、新築されて、面目を一新してオープンしたものです。本院は1941年に創立され、新中国で四川省博物館となり、今回の新オープンで創立時の名称に戻りました。住所は浣花南路251号で、浣花溪公園の東側に当たり、正面入口(北)は青華路です。公園の西が杜甫草堂です。開館時間は9時~17時で、月曜日が休館日です。入館料は身分証明書(旅券)を提示することで無料となっています。最寄りのバス停留所は送仙橋站で、19路(金沙公文站~和平小区站)・35路(三聖寺站~郭家橋北街站)・47路(金沙公文站~成仁公文站 塩市口站経由)・82路(茶店子公文站~成仁公文站 武侯祠経由)・88路(林湾公文站~百花中心站)・301路(杜甫草堂站~十陵站 武侯祠・新南門経由)・901路(成都旅游集散中心站~金沙遺址站 観光路線)などが停まります。 館収蔵品26万点から選ばれた千点ほどが展示されています。建物入口の階段を上ると、ここは2階です。展示室は3階・2階・1階です。3階は5室、「四川民族文物館」(彝族・羗族・チベット族・苗族・土族)「工芸美術館」(玉器・金銀器・漆器。蜀錦など)「百年四川館」(近現代の四川省)「万仏寺石刻館」(成都市万仏寺遺跡発掘石仏など)「蔵伝仏教(チベット仏教)文物館」(金銅仏・絵画・典籍など)、2階は4室、「張大千芸術館」()「書画館」(唐代から現代にいたる絵画)「陶瓷館」(新石器から清代の陶磁器)「青銅館」(周・戦国期の四川省内遺跡遺物)、1階は2室(ほかに特別展示室が2室)、「四川漢代陶石芸術館(一)」「四川漢代陶石芸術館(二)」(四川省内遺跡遺物)となっています。 2日(火)以来、MSN spacesへはアクセス不能でしたが、本日ようやくアクセス可能になりました。それで、ここでは簡単な紹介にして、写真は北側正面から博物院建物全景を撮ったもののみにとどめておきます。 なお、写真に関しては、フォトアルバムへのアクセスは通常通りできていたので、フォトアルバム「四川博物院」(45枚)としてアップしてあります。
4月22日 望江楼公園―成都雑感〔78〕―先日「蜀南竹海」に行ったので、成都市内で竹といえば望江楼公園(内外の約140種の竹が植えられている)が一番で、今回はこれを紹介します。望江楼公園は市中心の天府広場の東南約4kmに位置し、東を錦江に臨んで南北に長く、11.8haを占めます。北が文物保護区(北大門)で、南が園林開放区(西・南大門)です。文物保護区(望江楼古建築群―2006年全国重点文物保護単位指定)の開園時間は8時~18時で、入園料は20元です。最寄りのバス停は望江楼公園站(北大門)で、19路(金沙車站~和平小区站 草堂北路・青羊宮経由)・35路(三聖寺站~郭家橋北街站 草堂北大門・青羊宮経由)・335路(武科東三段站~郭家橋北街站 武侯祠経由)が停まります。 北大門を入ると、前方に竹の林が広がります。写真1はその中央の道を撮ったものです。写真に見える緑色板は竹の説明版で、名称(中国名・英語名)と説明(中国語)が簡潔になされています。また、左手に行くと、成都市を縦断するシンボル的な川、錦江に沿った柳の道に出ます。保護区内でも、説明版のある竹は確認できただけでも、観音竹・牛児竹・大明竹など50種以上に及びます。園林とのを合わせ、竹の植物園といってもいいでしょう。 「瀆竹苑」と呼ばれる竹と石の庭園を過ぎると、右手に薛涛紀念館があります。ここは唐代の女性詩人薛涛(768~831年)の事績を展示してあるところです。往事のものは残っていませんから、主として文献から彼女をたどっています。薛涛は唐の都長安(現陝西省西安市)生まれとされ、官吏の父に従い成都に移住し、父の死後に困窮し、妓女になりましたが、その詩才が認められ、女性詩人として名声を博し、白居易をはじめとする当代の詩人と親交を持ち、成都に骨を埋めました。唐代随一の女性詩人として知られています。 写真2は薛涛ゆかりの薛涛井です。薛涛箋という原稿紙を成都の井戸の水で薛涛は作ったとされています。これにより、明代初期から中期に当時の蜀藩王がこの井戸の水で薛涛箋を模して作ったところから、これを薛涛井と呼ぶようになったとのことです。 薛涛井の左手(南)に浣箋亭があります。薛涛を記念するために、清代の1814(嘉慶19)年に建てられ、現在の建物は1898(光緖24)年に再建されたものです。井の正面前方(東)には濯錦楼と崇麗閣(望江楼)があります。左(北)の濯錦楼も浣箋亭と同時期の建物です。これらの建物群の中央の空間に大木が天にそびえています、この根元に「崇麗」の字を石刻した巨石が置かれています。この字は書聖王羲之の字を集めたものです。 写真3が保護区の中心の建物の崇麗閣、すなわち望江楼です。写真は閣の南側にある吟詩楼への石段上から撮ったものです。右手が錦江になります。楼は高さは27.98mで、4層からなり、下2層は四角で、上2層は八角です。1886(光緖12)年に修築され、1889(光緖15)年に完成しました。晋代の文学者左思『蜀都賦』の一句「既麗且崇 実号成都」から名付けられた閣です。なお、この閣の四囲にはライトアップ施設が設けられています。
望江楼は最上階の4階まで上ることができます。眼下には錦江を望め、川が南東から南西へと流れを変えていくことが見えます。北の方が成都市の中心部で、今ではビルやマンションが林立しています。写真4は、最上階ではなく、3階から北へと錦江と濯錦楼を望んだもので、崇麗閣の緑色瑠璃瓦と反り返った金宝鴟尾が見えます。以上、崇麗閣(望江楼)・濯錦楼・吟詩楼・浣箋亭が清代末期の古建築です。 6月17日 寛窄巷子歴史文化保護区修復竣工オープン―成都雑感〔69〕―「寛窄巷子―成都雑感〔55〕―」(2008年1月6日付)で紹介した寛窄巷子歴史文化保護区の修復が一応なり、6月14日(土)、中国文化遺産日に合わせ、成都市は「守望家園―寛窄巷子歴史文化保護区修復竣工并対公衆開放」儀式を行い、市民に開放されました。四川汶川大地震から1か月あまりを経て、成都市観光の再開を盛り上げるイベントでもありました。この寛窄巷子は、成都市中心の天府広場から西に約1キロ余、蜀都大道の金河路の北に位置し、長順上街(東)・下同仁路(西)に東西を挟まれた、北から順に寛巷子・窄巷子・井巷子という3本の小街路からなります。この辺り一帯は清朝時代に満州八旗の居住したところで、少城と称されており、清朝時代の支配層地区で、現在でも清朝末期・中華民国期の四合院造の住居などが残っています。いわば昔の成都を偲ばせる街です。ここは2004年から新観光スポットとして再開発されると同時に、街並み保存して保護を加えたのです。この点で、武侯祠隣の錦里とは異なります。なお、最寄りのバス停は長順上街站(62・70・93・163・340路)です。 この日はちょうど4年生の卒業論文答弁会と重なりましたので、翌々日の16日に出かけてみました。月曜という平日にもかかわらず、市民で賑わっていました。保存・保護と同時に、観光スポットとしても再開発されて、レストラン・茶館・喫茶店・土産物店などが軒を連ねて開店しました。まだ、窄巷子などでは工事が完成しておらず、これから開店する店もかなりあります。その一つが、武侯祠隣の錦里にも出店している、スターバックスコーヒー店です。錦里と比較してみると、こちらの方が広くゆったりとしていますが、今のところ小吃類は少なく、これらの食べ歩きは劣ります。 さて、写真1左は、長順上街から寛巷子へ入って少し行ったところ、南面の「寛巷子」額のかかった民家です。ここのように門扉には彩色された絵が修復再現されています。 さらに少し行くと、北面に「徳門仁里」とある四合院造り2階屋があります。ここは、李家の民居で、家具調度などを整え、1935年当時の様子を再現しています。写真1右はこの様で、これは2階奥東側の「長輩房」、すなわち李家主人の父の部屋を再現したもので、ご覧のように成都人の好む麻雀を打っているところです。主人夫婦と父の3人麻雀です。 写真2左は、その茶を喫させるところの一つ、「茶馬古道」です。これは李家の四合院とは異なり庶民の2階屋で、再開発以前から住民が営業していたお店です。このように、路上で竹椅子にゆったりしながら茶を喫して、成都庶民の生活が味わえるところです。別のところでは、やはり麻雀を打つグループを見かけました。なお、茶馬古道とはチベットへの古の街道で、茶を運搬したことから名がおきました。 最後の写真2右は、窄巷子の西側辺の北に面する民家です。ここは現に住民がおり、門横の塀には、「参観謝絶」の掲示が出ています。過半の民居は店や展示館へと変わりましたが、このように少数ながらそのまま居住を続けている家もあり、生活臭もあるのです。以上のほか、フォトアルバム「寛窄巷子」には多数の写真を載せてありますから、これもご覧ください。 なお、寛巷子にはバックパッカー御用達のゲストハウスとして名高い、「龍堂客棧」(2002年開業)があります。
4月14日 龍馬古城宝墩遺跡―成都雑感〔59〕―四川省の古代文化(古蜀文化)は、宝墩文化(BC2500~1700年、龍山文化)、三星堆文化(BC1700~1200年、夏晩期~商後期)、金沙・十二橋文化(BC1200~500年、商後期~春秋後期)、晩期蜀文化(BC500~316年、春秋晩期~戦国期)と、四つに区分されます。そして、宝墩文化は「蚕叢」「柏灌」、三星堆文化は「魚鳧」、金沙・十二橋文化は「杜于=望帝」、晩期蜀文化は「鼈霊=叢帝」という伝説の蜀帝王の時代に相当すると考えられています。BC316年、この古蜀王国は北方の秦恵文王の派遣した司馬緒によって滅亡させられます。 この古蜀文化の最初としての宝墩文化命名の遺跡である、龍馬古城宝墩遺跡について紹介します。成都市の西南38kmに位置する新津県城の北西約7kmの龍馬郷宝墩村に、龍馬古城宝墩遺跡はあります。まず、成都旅遊集散中心站(新南門)から高速経由の新都行バス(13元)に乗り、約1時間弱で、新都客運中心站に着きます(新南門以外にも、城北客運中心站・金沙客運站・石羊場中心站からも新都行バスがあります)。バスセンター前で、客待ちをしている乗合い軽ワゴンで、龍馬郷石埂子村(3元)で降ります(タクシーももちろんあります)。ここで、「維修摩托」「専業維修電動車」の看板の出ている店の角の道を右手(北方向)に入ります。この道の左(西)に沿って都江堰からの用水路が水を湛えて流れており、水面にはアヒルも浮かんでいます。この用水路沿いの道を約1km歩きますと、宝墩遺跡が2001年に全国重点文物保護単位(日本の特別史跡に相当)に指定されたことを示す碑、写真1左が見えます。遺跡地に到着です。 宝墩遺跡は、1996年、成都市文物考古工作隊・四川聯合大学(現四川大学)考古教研室・早稲田大学長江流域文化調査隊の日中合同の発掘調査が行われました。これにより、北東から南西方向に1100m・南東から北西方向に600mの長方形の城壁に囲まれた遺跡であり、最大高8mの城壁を持ち、面積が66万㎡に達する大きな遺跡であることが分かりました。そして、これ以降の調査も含め、現在では本遺跡がBC2500年前、すなわち4500年前の遺跡であることが解明されました。下の〔龍馬古城宝墩遺跡全測図〕は合同発掘により作成された本遺跡の現地測定図で、城壁遺址の現存状態を示しています。なお、図の右側に斜めに走っているのが用水路沿いの道です。そして、上部の城壁遺址を示したところに、「用水路」と書かれている辺りに写真1左の碑が立っています。 さて、碑の所に、右に入る小道があります。この道を歩いて少し行ったところに右側に民家への上り道があります。実はこの民家はちょうど城壁遺址上にあるのです。この家のお婆さんが親切に案内してくれました。この庭先を進んだところが「全則図」の赤で示してあるところで、ここは城壁遺址を開削発掘し調査した地点です。現在ではもちろん調査地層は埋め戻してあります。写真1右は、開削発掘調査地点を城壁外側から撮ったものです。ここに「宝墩古泉」碑も立っています。なお、写真の右に小さく見えるのがお婆さんです。 この地点から前方を見ると、丘林が見えます。その丘林へと向かう途上で撮ったのが写真2左です。この丘は「全則図」の赤印から斜め右下に当たります。すなわち、南側城壁の現存東端部分です。両側の畑は菜種を栽培しており、四川盆地一帯が冬菜種・夏稲作の二毛作が通例であることをこの村も示しています。3月に訪れていれば、黄色の菜の花で華やいでいたことでしょう。なお、前方を行く女の子はお婆さんのお孫さんで、小学生ですが、しっかりと宝墩遺跡のことを把握しており、案内をしてくれました。やはり地元の人は本遺跡を誇りに思っているようです。 写真2右は南城壁に沿って歩き外側から撮ったもので、「全測図」の南城壁が一時切れるところの手前の所です。城壁遺址の上はご覧のように竹林になっています。四川省は多様な竹を産しています。 この切れたところから、道を前方に取ると、先の用水路沿いの道に出ます。この辺りから用水路を隔てて古城内が望見できます。ここで撮ったのが写真3で、中央に丘が見えます。「全測図」の城壁内中央の円形のものです。これが「古墩」と称する丘です。発掘調査により、底辺を60×40mの方形とする、3段の階段状のピラミッド形上の人工の土壇遺構と判明しました。その起源や用途には複数の見解がありますが、城壁と同時代に起源をもち、祭壇として用いられたのではないかと考えられています。とすると、宝墩遺跡は、城壁と祭壇(神殿)を備えた、れっきとした古代都市ということができます。このことは、メソポタミア・エジプト都市文明誕生と同時代に、四川にも都市文明が誕生したことを示します。今回はこの「古墩」は訪れませんでしたが、宝墩遺跡が古城たることを示してくれました。 宝墩遺跡と同様な、城壁で囲まれた同時代遺跡が成都平原に分布しています。すなわち、都江堰市の芒城古城、温江区の魚鳧古城、郫県の三道堰古城、崇州市の双河古城などです。これらの遺跡は岷江流域である都江堰扇状地上に集中分布しているのです。すなわち、古蜀文化発祥の地は都江堰扇状地と考えることが出来ます。そして、おそらくは洪水などを原因として、これらの城壁都市が放棄され、岷江の洪水の難のない成都市北方の広漢市の三星堆へと中心が移動したのでしょう。 なお、金沙遺跡に関しては、「金沙遺址(遺跡)博物館―成都雑感〔39〕―」(2007年4月19日付)、望帝・叢帝に関しては、「望叢祠―成都雑感〔50〕―」(2007年10月28日付)をご覧ください。 〔龍馬古城宝墩遺跡全測図〕
成都市文物工作隊・四川聯合大学考古教研室・早稲田大学長江流域文化調査隊
1月6日 寛窄巷子―成都雑感〔55〕―成都市中心の天府広場から西に約1キロ余、蜀都大道の金河路の北に位置し、長順上街(東)・下同仁路(西)に東西を挟まれた、寛巷子と窄巷子という小街路があります。この辺り一帯は清朝時代に満州八旗の居住したところ(少城と称していました。現在でも中国共産党四川省委員会はこの辺りに位置しています)として、清朝時代の支配層地区で、現在でも清朝後期の四合院造の住居などが残っています。いわば昔の成都を偲ばせる街です。ここも「文殊坊―成都雑感〔31〕―」(2006年12月10付)で紹介した文殊坊と同様に、現在再開発中で、新たな観光スポット「古街」として生まれ変わろうとしています。ただ、ここは再開発といっても、旧居の保存を基本として補修し、しかも居住中の住民が日常生活を営めるようにしています。すなわち、日本での歴史的町並み保存と同様なものがあるのです。まだ完成前ですが、その一端をお見せします。 写真左は長順上街側からすこし道を入り、寛巷子に入るところです。ご覧のように、街路には露店が出ております。この寛巷子の北東に隣接して、実は生鮮三品を扱う自由市場のビルがありますから、これらの露店はこの流れなのです。 写真右は街路で営業中の「干雑」店です。この住居の内側は旧居が撤去されて再開発工事中で、表はこれから補修工事になるようです。このように、実際に居住し営業しており、生活が息づいているのです。住居は煉瓦塀で覆われ、門構えがあります。この点、「消え去る木造民家―成都雑感〔5〕―」(2005年6月11日付)で紹介した、庶民の民家とはランク上の高級民居なのです。ですから、ここではお見せしませんが、門壁の一部を改造して車庫としている住居も見かけます。これは現在でも成都市内では希な一戸建て高級住宅として機能していると見ました。おそらくその居住者は富裕層と察せられます。 なお、再開発が基本的に完成したら、その全貌をお見せします。
10月28日 望叢祠―成都雑感〔50〕―今回は成都市西北郊外22㎞にある成都市郫県県城の望叢祠を紹介します。望叢祠は古蜀王国の王、望帝と叢帝を祀ったところです。 まず簡単に、両帝のことを紹介します。古代の蜀(四川省)で初めて王として登場したのは蜀侯蚕叢で、養蚕を興したとされています。次いで柏灌、魚鳧と継がれ、彼達も数百年続いたとされており、漁業(鵜飼)の象徴とされています。次いで、杜于が自立して蜀王となり望帝と名乗り4百年ほど続き、農業を盛んにします。次いで、治水に功のあった宰相鼈霊(楚人)に位を譲り、鼈霊は叢帝と称して百数十年治め、その子孫が12代続きます。これが開明氏の蜀国です。開明氏の蜀国は、BC316年、北の秦国恵文王の派遣した司馬緒によって滅ぼされます。以上が史書(『史記』、後漢末BC1世紀の揚雄『蜀王本紀』、西晋4世紀の常璩『華陽国志』)の示している、いわゆる古蜀王国の歴史です。現在では、BC1700~1200年(夏晩期~商後期)の三星堆文化の時代が蚕叢・柏灌・漁鳧の3代、金沙遺跡に代表されるBC1200~500年(商後期~春秋)の十二橋文化の時代が望帝以後に相応するのではないかと考えられています。もちろん、黄河文明の三皇五帝が伝説のものであると同様に、蚕叢以下も伝説的存在で、史実そのものではないことはいうまでもありません。ですが、黄河文明とは異なる独自の文明である長江文明の古蜀を象徴する伝説的存在が彼等なのです。この意味からいうと、時代的には相違しますが、三皇五帝の黄帝に相当するのが蚕叢、堯帝に相当するのが望帝、夏王朝の始祖とされる禹王に相当するのが叢帝ではないでしょうか。 さて、望叢祠はこの望帝と叢帝を祀る地として陵のあるところです。もちろん伝説上の帝ですから、この両陵とも伝説上のものです。望帝の陵は最初、現在の成都市から西北に50㎞あまりの都江堰市の都江二王廟のある玉塁山麓にあり、崇徳祠と称していました。南北朝の斉明帝の時(494~98)、郫県の現在地にこれを移し、叢帝陵と合併し、以後、望叢祠と称するようになりました。宋代に新修造されましたが、明末の戦乱で陵を除き破壊されました。清の道光14(1834)年に修造されて、約1.5ha弱の地を占めるようになりました。光緒33(1904)年に祠の東に聴鵑楼を建てました。中華民国の1915年に祠の後面に庭園を作りました。1984年、郫県政府が大規模な修造を行い、現在は祠の面積は5.5haとなっています。1991年、祠は四川省文物保護単位(史跡)に指定されました。 望叢祠は郫県県城の南西部に位置します。成都市からの交通は、まず金沙公文站からの305路で終点の郫県客運中心站に行きます。なお、以前はこのバスの終点は望叢祠でしたが、客運中心站が新設されたことにより、終点が客運中心站になりました。40ほどの停留場があるため、金沙から郫県県城まで1時間以上はかかります。運賃は2.5元(エアコン車は3元)です。金沙で満員となり、郫県に入るまで降車客はいませんから、金沙で乗るべきです。郫県客運中心站は西灌西路(国道213号―成都市と都江堰市を結び、その先甘粛省省都蘭州に繋がる)と二環路(望叢西路)との西南角に位置しています(なお、現在二環路は全面道路工事中です)。ここより、二環路に道を取り、1.5kmほど徒歩で南下すると望叢祠前に着きます。入場料は5元で、開館時間は掲示していませんから不明ですが、他の観光地と変わらないと思いますから、8時~18時ではないでしょうか。入口の大門の左側に窓口があります。 大門を入ると、正面に写真1左に見る、「望叢祠」壁が目に入ります。現在の壁が何時できたものか、説明がないため分かりませんが。壁の後方に見える建物が望帝叢帝紀念堂(記念堂)です。これは1993年に改築されたコンクリート製の建物です。この中に祀ってあるのが写真1右に見る、望帝と叢帝の塑像です。左が望帝で、右が叢帝です。これも説明がないため何時のものか分かりません。堂内の壁には両帝を中心に古蜀王国の説明が掲示されています。 紀念堂の後面に出て、橋(左右は池)を渡り直進し、左手に階段を上ると、望帝陵正面に出ます。写真2左がこれです。正面に1919年に四川省督軍の熊克武の建てた「古望帝之陵」碑があります。望帝陵は高さ15m・周囲約200m余の長楕円形(軸は南東・北西)のものです。陵は古柏で覆われており久古を感じさせます。正面の祭壇の後方は階段となっており、本来はそこから上り陵の前に出るのです。以上、地形を見ますと、元来の丘が整備されて陵と化したといえます。いわば自然地形を生かしたものなのです。この点で、陝西省黄陵県にある黄帝陵が自然の橋山山上にあり、山自体が陵墓とされているのと、同様に考えることが出来ます。すなわち、望帝陵は人工によるものではなく、自然の丘(山)を、後世の人がそれを陵墓として祀るようになったのです。望帝は郫に治したとある(『蜀王本紀』)ので、平地のこの付近で自然地形上の丘といえば、その地しかないのです。 望帝陵から下って直進し、道を左(北)へ池を越えていくと、写真2右の叢帝陵の正面に出ます。叢帝陵は高12mで、直径20mほどの円形をしています。これも古柏に覆われています。地形を見ますと、望帝陵からの続きの丘の稜線の末端が叢帝陵に相当します。ですから、この陵も自然地形を利用したものといえます。この陵の後方へと道を取ると、聴鵑楼に出ます。そして、望帝叢帝紀念堂へと戻ります。 最後に、望帝陵の南には博物館が設置されて、郫県の遺跡発掘品の展示などがなされています。また、紀念堂の右手の池に面して、レストランが設置されており、同時に池畔に竹椅子を出して、四川の茶館を楽しめます。四川人の麻雀好きを表すように、麻雀卓も用意されています。この望叢祠は成都・都江堰間に位置していますから、都江堰観光の帰り、時間的余裕があるならば、寄られるのもいいでしょう。 追記 古蜀王国に関しては、「金沙遺址(遺跡)博物館―成都雑感〔39〕―」(2007年4月19日付)を参照してください。(2009年1月7日)
7月10日 宝光寺―成都雑感〔47〕―宝光寺は後漢創設と伝えられ、長江四大禅林の名刹です。成都市の北郊19kmの新都区に位置しています。約10haの敷地内に、1塔5殿16院(庭)があります。舎利宝塔、山門・天王殿・七仏殿・大雄宝殿・蔵経楼です。拝観は8時から17時半までとなっており、拝観料は5元です。 宝光寺は後漢創立と伝えられ、最初「大石寺」と称していました。史書の確実な記載の最初は唐代の713(開元元)年ですから、伝えはともかく、1300年あまりの歴史をもつ古刹です。しかし、唐末の黄巣の乱で、四川に逃れた僖宗が当寺を行宮として滞在し、この関係で寺と舎利塔を建て直し、881(中和元)年、寺名も「宝光寺」と改められました。宋代に最盛を迎えましたが、明滅亡の崇禎年間(1640~4年)の兵火で全山焼失し土台のみが残りました。清代の1670(康煕9)年に再建されて、その後、増改築がなされ現在の姿に到っています。 成都からの交通のことです。北門車(梁家巷)站~新都汽車中心(鐘楼)站の650路、鐘楼站~宝光寺站の8路と乗り継ぐことで、成都市内から宝光寺へ到達します。北門車站は一環路と解放路の交差点の北東角に位置します。ここで、650路に乗車します(二環路と解放路の交差点の高笋塘站からの乗車も出来ますが、始発で満席となり、乗客は新都区まで乗車しますから、立ちっぱなしとなり、お勧めできません)。運賃は3元で、乗車してから車掌に払います。終点の新都汽車中心站で降ります。約40分を要します。この站は蓉都大道(南北)と桂湖東路の交差点の南西角に位置します。 8路の鐘楼站は交差点を渡って、左(西)に桂湖東路に入ったところにあります。鐘楼~小花園~鎮政府~東環路~宝光寺と四つ目の宝光寺で下車(1元)すると、客運站前で、道(宝光大道)を進行方向(西)へ少し行くと右(北)に宝光広場が広がります。ここを進めば、300mほどで宝光寺です。実は、宝光寺へのバスは幾つかあるのですが、新都区のバス停表示は路線により異なり、またバス停自体に名前表示がないため分かりにくいので、間違いのない8路のみを記します。なお、徒歩で行く場合は、桂湖東路・桂湖中路と歩き、右(北)に新中路と折れて進み、東街・西街との食い違い交差点に出、左(西)に曲り、直ぐに右(北)に北街に道を取り進めば、宝光広場に到達します。中心站から寺まで歩いて30分は要します。 さて、以下に写真をお見せし(本記事登載以外に、フォトアルバム「成都(新都区)・宝光寺」を参照)、寺内を紹介していきます。まず、写真1左は山門です。門の左側が入寺口です。現存の山門は清代後期の1835(道光15)年に建てられたもので、門内の両側左右に1体の密跡金剛力士像を捧持しております。 山門から進むと天王殿です。1863(同治2)年に再建された天王殿には、写真1右に見るように、弥勒菩薩像と左右に四天王像を捧持しております。また、殿裏は1413(永楽11)年に創建され1863年に再建された尊勝幢で、このことから天王殿は尊勝宝殿とも呼ばれます。 天王殿を出て、前を見るとそびえ立つ舎利宝塔が目に入ります。写真2左は宝塔を正面から撮ったものです。高30m・13層の煉瓦造の宝塔は、唐代の中和年間(881~5)創建で、四面に仏像が彫られていますが、時代を経て今ではご覧のようにしょうしょう傾いでいます。現存する寺内建築物の最古参が宝塔で、寺のシンボルともいえるものです。 宝塔の奧の建物が写真2右の七仏殿です。1861(咸豊11)年に再建された七仏殿には釈迦無尼仏像とそれ以前の六仏像が安坐しており、殿裏には韋駄天菩薩像が捧持されています。 七仏殿を抜けると、寺内の中心、写真3左の大雄宝殿が聳えます。1859(咸豊9)年に再建された宝殿は約700㎡で36本の石柱支えられた建物で、殿内中央に釈迦無尼仏像が安坐しております。 寺内の最奥が写真3右に見る蔵経楼です。楼は高30m・延面積約1000㎡で、1848(道光28)年の再建です。楼内には大蔵経336冊以下が納められています。楼の左右には東・西方丈が接しています。西方丈北側の西花園にチベット仏教ゲルク派の創始者ツォンカパ(1357~1419)を捧持した密壇があり、四川の仏教界とチベット仏教の関係が深いことが察せられます。 さて、楼前の右側に通路があり、ここを進むと1851(咸豊元)年創建の羅漢堂前に出ます。門をくぐると右が羅漢堂です。ここには557体(祖師59体・羅漢518体)の像が捧持されています。自然光の中でいろいろな表情をした羅漢像を目にすることが出来ます。この羅漢像は清代後期の作で、これだけの羅漢像を一同に見ることは他では望めず、圧巻といえるもので、寺内の目玉的存在といえます。写真4左はこの羅漢像の一例です。ただし、この堂内のみが撮影禁止です。ですから、この写真はいわば盗み撮りしたものです。しかも、ストロボを使用しない(羅漢像保護からも当然)自然光だけですから、撮影条件は厳しいです。羅漢堂の奧には石彫舎利塔(1906年)と玉仏殿があり、玉仏殿には南北朝時代の梁代作とされる玉仏が安置されています。 羅漢堂を出ると、前に両側を赤壁に覆われた道があります。これを歩むと、舎利宝塔の横に出ます。写真4右は舎利宝塔を背景にしてこの道を撮ったものです。この赤壁に覆われた道は四川によく見られるもので、成都市内の武侯祠や杜甫草堂にもあります。 以上のほかにも、寺内には茶園(茶館)があり、のんびりと休み茶(3~10元)を楽しめますし、精進料理レストランもあります。また、寺内西側には高僧塔林があり、当寺の高僧が眠っています。 最後にトイレですが、とかく中国のトイレは日本人に評判がよくありません。しかしながら、当寺のトイレは最新のもので一級の設備を整えてあります。西側のトイレの一端を説明すると、身障者用の個室トイレ設備(フォト「成都(新都区)・宝光寺」23枚中22番目写真参照)があり、また、一般の便器は中国式の跨座式ですが、TOTO製を用いており、もちろん個室鍵付で小さいながらも物置用の棚も設置され、ハード的には5星級のホテル並みです。この点、例えば、金沙遺址博物館南門脇の駐車場の公衆トイレもTOTO製を用いており、成都の観光地でのトイレ事情はハード的にはよいものとなっております。 4月19日 金沙遺址(遺跡)博物館―成都雑感〔39〕―金沙遺址博物館が、4月16日(月)12時半、オープンしました。開館時間は8~18時で、入場料は80元です。成都中心の天府広場から西北西に約5㎞の、二環路と三環路の中間に位置します。最寄りのバス停は、901路(成都旅游集散中心站から)が終点の金沙遺址站(南大門前)、7路(十里店公文站~蜀源路站)・14路(青苑東街站~成洛路公文站)・82路(茶店子公文站~成仁公文站)・83路(青龍場中心站~機投鎮站)・96路(川大錦城学院站~北京西単站)・111路(桂渓公文站~迎賓大道中站)・502路(成都客車廠站~機投鎮站)・503A路(火車北站~機投鎮站)が青羊大道北站(東大門前)です。
金沙遺跡は、2001年2月8日、住宅開発に伴う下水道工事中に、発見されたものです。21世紀最初の中国における考古学的大発見でした。その後の発掘調査により、基本確認部分でも5平方キロに及ぶ大型遺跡です。ここからはすでに金器200余点・青銅器1200余点・玉器2000余点・石器1000余点・漆木器10余点の5000点あまりと、陶器数万点・象牙1トン・動物骨片数千点が発掘されました。これらの調査などにより、ここは、BC1700~1200年(夏晩期~商後期)の三星堆文化の後、BC1200~500年(商後期~春秋)の十二橋文化の代表遺跡と解明されたのです。以上により、2006年に中国重点文物保護単位(特別史跡に相当)に指定されました。すなわち、三星堆遺跡と並んで、四川省における古蜀文化(長江文明)を体現する遺跡なのです。いにしえの古蜀王国の跡といえます。この遺跡の中核的なところに博物館が建設され、保護された遺跡と出土品を眼前にすることが出来るようになったのです。
さて、博物館は敷地面積30万㎡・延総建築面積3.5万㎡で、遺迹館・陳列館・文物保護中心(センター)の主要な三つの建物からなっています。遺迹館は、大型祭祀遺構上にドームを覆って、保護・見学出来るようにした施設です。陳列館は、ここから出土した遺物を中心に、展示した施設で、見学の中心といえるものです。文物保護中心は、研究施設であるとともに、ここで実演・体験などを行う施設です。以上3館の見学はその順にしたがって行うのがいいでしょう。まずこの目で遺跡自体を確かめ、この出土品をじっくり鑑賞し、最後に往事を体験するのです。
東大門を入ると、正面に遺迹館の建物があります。面積約7600㎡・高さ18m・幅63mの建物が大型祭祀遺構を覆っています。そのまま遺跡を保護・見学できるようにしたもので、陝西省の秦始皇帝兵馬俑博物館と同様なものです。当然ながら、ここではまだ発掘が継続中です。写真1左が内部の様子で、これは入口(東側)から入ったところで西へと撮ったものです。ご覧のように遺跡の内部に通路が設けられて、見学できるようになっています。ただし、保護のため発掘は全て埋め戻されており、遺物はごく一部を除いて見ることが出来ず土だけを見ることになります。ただし、各地層の表示はしっかりなされており、同時に、主要な出土品は発見地点にカラーパネルが置いてあり、どこで出土したか確かめることが出来ます。写真1右は、内部通路を通って西側に出たところにある、ガラス越しに足下に見える大型烏木(黒壇)の樹根です。約100㎡もある巨大なもので、これは発掘されたままその場所にあるものです。以上で遺迹館は終わりです。
遺迹館の北の出口から道を進み(北へ)、川(ここで古蜀人は祭祀を行ったと考えられています)を渡ると、陳列館です。2階建ての陳列館には五つの展示室と4D影院(映画館)、売店・喫茶室などがあります。
まず、入口を入り階段・エスカレーターを上がると、2階の一展庁(第1展示室)です。「遠古家園」と題されています。入ると、写真2左に見るように、往事の古蜀人の生活場面のパノラマが目に入ってきます。ここには動画を見る液晶パネルも設置されています。生活を主体としていますから、展示品も動物骨格(馬・豚・犬・鹿・虎・猪・象)・陶片などで、当時の動物の生態が理解できると思います。なお、全展示室の展示品はその名称(中国語・英語)を記しているのみで、説明はありません。
次が二展庁(第2展示室)です。「王国剪影」と題されています。入ったところに本博物館地区の遺跡分布模型(宮殿区・祭祀区・生活区・墓地)があります。その後方スクリーンには発掘時のビデオ映像が流されています。ここより左に通路にしたがって進むと、左の壁側に往事の建物などが復元された居住パノラマがあります。その先に、生活用具の出土品が展示されています。逆に右壁側には大型建築遺跡の縮小模型と出土建築木材が展示されています。さらに進むと、左側に冶鋳として金器・銅器の出土品が、次いで制玉として玉器・玉石が展示されています。写真2右は、この制玉のところにある代表としてお見せするもので、「刻劃同心円円紋的玉璋」とあるものです。これは直径16.9cm・孔径6.2cmで、7重の同心円の刻みがあります。玉器の展示品の中には逸品が多く含まれており、見逃しがたいところです。これと反対側の右側には、早期・中期・晩期と分けて、大量の陶器が展示されています。この展示室の最後が墓葬です。単人墓や複人墓がここにそのまま切り取られて展示してあります。当然ですが死者の骨を見ることになります。
二展庁を出ると、エスカレーターがありますから、これで1階に下ると、左手に三展庁(第3展示室)の入口があります。「天地不絶」と題されています。入ってすぐ目に入るのが写真3左の高さ14.6cmの青銅立人です。これは本遺跡出土の青銅器を代表する品です。このためか、これのみの単独展示として通路の中央に位置しています。さらに進むと、象牙群が展示されています。保護液の入った水槽内に2mはあるのかという巨大なのを含みます。そして、中央に石器類、左に金・銅器・石器などの雑類、右に玉器類が展示されています。これらも貴重な出土品を多数含みます。石器類には中国最古の打楽器といわれる石磬などを展示しています。玉器類には玉璋・玉琮などの各種の玉器ごとにまとめて展示されています。暗い中に照明に浮かぶ多数の玉器は美しいものがあります。また、雑類のところには、喇叭形金器・三角形金器・銅虎・跪坐石人像などの逸品が含まれており、見逃すことが出来ません。石器類の奧には遺跡組として祭祀品類が展示されています。なお、順路は石器類・玉器類・遺跡組・雑類となり出口になります。
三展庁を出て、まっすぐ進むと、四展庁(第4展示室)です。「千年絶唱」と題されているように、陳列館のハイライトです。すなわち本遺跡出土品の粋が集められた展示室というわけです。展示室の中央に、本遺跡出土品の白眉、太陽神鳥金箔が鎮座しており、その四囲に4か所に分けて出土品を展示しています。右手前のブースには、緑松石珠・有領玉璧(2枚)・玉鑿(3本)・玉戈・陽刻昆虫紋玉牌が、右奧のブースには、帯柄有領銅璧・人形銅器(2体)・金面具・金冠帯・鏤空喇叭形金器が、左奧のブースには、石虎・跪坐石人像(2体)・四節玉琮・十節玉琮・獣面紋玉鉞・玉鉞が、左手前のブースには、玉璋・肩扛象牙人形紋玉璋(2枚)・玉戈(3本)が、それぞれ右から順に展示されています。写真3右は直径19.9cm・幅2.8cmの金冠帯です。ご覧になりにくいでしょうが、人頭像・鳥・被矢魚の細刻が施されています。写真4左は長22.4cm・幅11.4cmの獣面紋玉鉞です。ご覧のように、上部に獣面の紋飾の線刻が施されています。以上の展示品の外に、本展示室の内壁と外壁の間が通路となっていて、ここに本遺跡の理解をより深めるためとして、中国全土の主要遺跡のパネル写真などを掲示しています。これで、黄河文明と長江文明の主要遺跡の概要を知ることが出来、金沙遺跡の中国史上での位置が知りえます。
最後の写真4右が、2001年2月25日に発掘された、外径12.5cm・内径5.29cm・厚さ0.02cm・重量20gの太陽神鳥金箔です。展示室の中央に、天井からのスポットライトを浴びて、回転する台上で輝いています。これはもっとも貴重な出土品として、ガラスケースから2m近く離れたところまでしか近づけませんし、警備員が立っています。以上のことから、写真撮影が一番困難な出土品です。
以上で四展庁を終えると、出口(入口と同じ)の右手にあるエスカレーターで下りると、地下1階の五展庁(第5展示室)に至ります。「解読金沙」と題されているように、本展示室は成都市とその近郊を主体とした遺跡の紹介です。写真パネルを中心として一部遺物を含めて展示しています。これによって、古蜀文化における金沙遺跡が占める歴史的位置が理解できるわけです。
これで、陳列館の出土品見学は終わりです。地下1階には4D影院(映画館)があり、金沙遺跡の映像上映を行っています。時間に余裕があればゆったりとした椅子で映像を楽しむのもいいでしょう。それから、そこには売店があり、図録・書籍やレプリカ銅器や太陽神鳥を模した記念品などを販売しています。また、外面に面して喫茶店があり、各種の茶(20元から)・コーヒー(エスプレッソ35元から)とケーキ類があり、休息の場となっています。地下から陳列館を出ると、この広場には出土した烏木の大木が展示されています。陳列館の裏は北大門です。以上、博物館の施設はすべて最新のテクノロジーにより遺物の保護と展示を行い、同時にバリアフリー化された設備となっています。
ところで、陳列館を出て、右(西)へ道をとると、文物保護中心と金沙劇場で、体験と実演の場ですが、まだオープンしたばかりなのか、ここはまだ活動していないようなので、具体的にどのようなことがなされるか定かではありません。
陳列館からもとの道を戻り、左手に遺迹館を通り過ぎ、道をまっすぐ行くと南大門に出ます。その途中に、2005年8月16日に中国文化遺産シンボルマークに太陽神鳥金箔が選定されたことを記念して、同年12月18日に出来た彫塑モニュメントが右手にあります。また、道の左手側は烏木林であり、出土烏木が地に立てられて林立しています。
以上が開館時における金沙遺址博物館の紹介です。
最後に、館内撮影についてお話しします。館内撮影は自由です。太陽神鳥金箔をはじめ展示品が撮影できます。しかし、展示品は保護のため基本的にガラスケース内に収められています。したがいまして、ストロボ撮影ではその光が反射してよい写真とはなりません。それに現在はストロボ撮影を係員が制止していませんでしたが、遺物の保護からいっても、これが禁止されるのは当然なことと考えます。ですから、撮影は室内の照明のみということになります。
ということは、光量不足によるシャッタースピード低下からくる、手ブレが一番の問題となります。次いでフォーカスオートの動作が不正確になりやすいことです。とりわけ前者の問題は撮影画像の善し悪しに明確に現われます。しかし、デジタルカメラの液晶画面では極端でなければ確認しかねます。ですから、この対策をしっかりしないとよい写真は撮れないことになります。私の機材は3年前に購入した、デジタルコンパクトのリコーGXです。これで、開放値のf2.5で1/10秒以下のことは普通で、1秒や1/2秒(例示・金冠帯)のことも珍しくありませんでした。このことを考えて、壁やガラス枠などを利用してカメラ保持をしっかりとする必要があります。したがいまして、第一にスローシャッター対策を第一に心がけてください。
次に撮影対象と部屋の照明との光度差が大きなものがあることです。この最大のものが太陽神鳥金箔です。ここは金箔を覆うケース上面にも像が浮かび上がり見れるような仕組みになっており、肉眼で見るには美しくなんでもないです。しかし、部屋自体が暗く、天井から強いスポット照明を当てており、金箔表面とその他の部分との光度差が極めて大きく、普通に撮ってしまっては金箔が白く飛んでしまいます。私の場合、オート露光方式をスポットに切り替えて、望遠側(85mm相当)いっぱいにし、さらに腕を伸して液晶画面中央に金箔をとらえてシャッターを切りました。ここは照明が強いため1/60秒以上で切れますから手ブレはそれほど気にしなくてもいいのです。ですから、太陽金鳥金箔撮影には望遠(135mm相当以上)を用いてスポット測光をするのがいいでしょう。ただ、望遠側に偏るといくら照明が強いといっても手ブレに注意する必要があるでしょう。以上、第二に、照明比の関係から撮影対象により、測光方式(平均・中央重点・スポットなど)を的確に選ぶ必要があります。
なお、金沙遺址博物館の公式Webサイトが開設されており、 (http://www.jinshasitemuseum.com) 各種の解説説明や出土品(太陽神鳥金箔など)の写真などが見れます。
追記 古蜀王国伝説上の王、望帝と叢帝の陵のある郫県「望叢祠」に関しては、10月28日付「望叢祠―成都雑感〔50〕―」をご覧ください。 4月16日 速報・金沙遺址(遺跡)博物館開館本日(16日月曜日)12時半、金沙遺址博物館(8時~18時 入場料80元)が開館しました。
3月末の新聞発表通りに4月中旬にオープンに漕ぎつけたわけです。
詳細は後日にゆずるとして、フォト「成都・金沙遺址(遺跡)博物館」をアップしましたので、写真をご覧ください。
これで、成都市に第1級の新観光地が出来たわけです。
4月1日 901路「成都観光」オープン二階建てバスの経路変更―成都雑感〔36〕―「901路『成都観光』オープン二階建てバス―成都雑感〔28〕―」(2006年11月14日付)で紹介した901路の経由停留場が一部変更になっています。 新〔成都旅游集散中心站~…~杜甫草堂站〔草堂寺〕~一品天下站〔黄忠路口〕~金沙遺址站〕 旧〔成都旅游集散中心站~…~杜甫草堂站〔草堂寺〕~金沙車站~金沙遺址站〕 です。したがいまして、全経路は、成都旅游集散中心站~春熙路南口站〔東大街〕~塩市口站~要都站〔南郊〕~武侯祠站~人民公園站〔小南街北〕~支磯石站~琴台路站〔通恵門〕~青羊宮站~古玩(骨董)市場站〔送仙橋〕~杜甫草堂站〔草堂寺〕~一品天下站〔黄忠路口〕~金沙遺址站となります。
この変更された「一品天下」とは、二環路西段から市外へ伸びる蜀漢路と交差して北に延びる蜀華路に、2005年にオープンしたグルメ街のことです。現在は道路名も「一品天下街」となっています。ここは、四川料理(川菜)の本格料理から小吃(スナック)までの、成都市内の名店の支店を多く集めています。ここに来れば四川料理全般が味わえるというわけで、この命名になっています。この一品天下街と蜀漢路の交差点を南に行けば、金沙遺址博物館の東入口のある青羊大道に至ります。この901路の路線変更は、本路線が観光路線という基本からのものと考えてよく、四川料理とそのグルメ街の売り出しのためと思います。
現時点では金沙遺址博物館は未だ工事中で、オープン時期は当初の予定が遅れて、5月のメーデー以降ではないかと推察されます。なお、この博物館へのアクセスですが、市内バスの、7路(十里店公文站~蜀源路站)・14路(青苑東街站~成洛路公文站)・83路(青龍場中心站~機投鎮站)・96路(川大錦城学院站~北京西単站)・502路(成都客車廠站~機投鎮站)などに乗り、青羊大道北站で下車すればよいです。 3月11日 天府広場新装オープン―成都雑感〔35〕―天府広場は地下鉄1号線(南北線・2010年開通予定)と2号線(東西線)の交差駅と予定されています。このため2004年から開始された地下鉄工事に伴い、天府広場は再開発で閉鎖中でした。この2月9日夜、21時に新装なった地上部の広場のオープンセレモニーが四川省省長蒋巨峰氏主催のもとに行われました(なお地下部は工事中)。これは、中国国家旅游(観光)局・国連世界観光組織(UNWTO)選定の、中国最佳旅游城市(中国最優秀観光都市)に、杭州・大連と並んで、成都市がこの日北京で表彰されたことに合わせたものです。この日は春節休暇で帰国中のため成都にいませんでしたので、当日のオープンセレモニーは見ることが出来ませんでした。そこで、3月に成都に戻ってきたので、新装なった天府広場を以下の写真でお見せします。
まず写真1左(これのみ7日水曜日撮影)は、広場に南接した人民南路一段西角の天府書城3階から、広場を俯瞰したものです。さすがに広く全景は入りませんが主要部分は収めてあります。ちょうど、道路に見えている赤いバスは901路の観光オープン二階建てバスです。さすが平日で寒いのか二階部に乗客は見えていません。
写真1右(以下、10日土曜日撮影)は広場中央に位置する太陽神鳥です。いわば広場のシンボルです。同時に成都市のシンボル的存在でもあります。オープンセレモニー式典はこの前で行われました。これは「太陽神鳥金箔飾」をモチーフとしたものです。「太陽神鳥金箔飾」は、2001年、金沙遺跡(二環路外の市内西北部に位置し、商代末から西周―BC1400~800年―の遺跡で、BC2000年前の市北郊外の広漢市の三星堆遺跡を継承し、長江・古蜀文明を代表する)で発掘されました。直径12.5cm・厚0.2mm・重量20gの小さなものですが、遺物の白眉といわれます。昨年、日本で開催された「三星堆と金沙遺跡秘宝展」には他の遺物が展示されたのに、これのみレプリカで、如何に中国がこれを貴重なものとしていることがお分かりでしょう。なお、これは、2005年8月16日、中国国家文物局により中国文化遺産のシンボルマークに制定されました。
写真2左は東魚眼龍騰噴泉です。ご覧のように、地下部は工事中で作業がなされています。中央に噴水タワーが立ちます。遠くに見えるのが写真2右の西魚眼騰龍噴泉です。これらは対になって、太陽神鳥の左右(東西)に配置されています。実は東の噴水タワーはスモークを噴出します。西のも上部は同様です。東の壁の部分に金色で「天府」とあるのがお分かりでしょうか。タワーの左脇です。
写真3左は、広場を囲むように12本立てられている十二文化柱のうち、広場北中央東側の「天下名城」柱です。この変遷と由来を柱に記しています。このように、蜀文化を記した柱が広場を囲んでいるのです。なお、柱の左奥に見えるのが1969年建立の毛沢東立像です。
写真3右は、広場の一番北に位置する、水を噴出している北広場音楽噴泉です。この名前の通り、音楽に合わせて水が噴出し、一つのセレモニーとなっています。これは15時からのものです。もちろん東魚眼龍騰噴泉・西魚眼騰龍噴泉も同時にスモークをたき水を噴出させます。夜(20時)にはライトアップもされ、水と光のセレモニーとなります。
写真4左は東魚眼龍騰噴泉を囲む円形の壁から左(西)手前に伸びている黄龍雲形噴泉です。名前のように、世界自然遺産で四川を代表する黄龍を模したものです。ご覧のように、左右の壁からスモークを噴出しています。後方ではタワーからスモークが、北広場音楽噴泉から噴水が噴出しているがお分かりでしょう。
最後の写真4右は広場南正面の西脇にある広場記版にある「天府広場旅游導問図」(天府広場観光案内図)です。これをみれば、広場全体は、中国伝統の陰陽思想による太極図を、模していることがお分かりでしょう。以上示したもの以外に、広場南面・東西面は花壇となっています。なお、地下には地下鉄駅はもちろん、地下街・駐車場も設けられます。 なお、以上の写真はフォト「成都・観光」からセレクトしたものです。 12月10日 文殊坊―成都雑感〔31〕―成都市の古刹として知られる文殊院の周辺は昨年より再開発がなされていました。その第1期工事の完成により、10月1日、生まれ変わった古街としてオープンしました(完成は2010年の予定)。青羊宮東の琴台路・武侯祠の錦里に次ぐものです。今回は少し遅くなりましたが、この古街「文殊坊」を紹介します。
文殊院歴史文化保護区(総計画面積約26ha)は東を北大街・草市街、南を白家塘街・通順橋街、西を人民中路三段、北を大安西路に囲まれたところです。そのほぼ西北部に位置する文殊院の東・南側に文殊坊が広がります。ここには老川西(四川省西部)建築が再現され、食事・民芸品・工芸品などの店や露店が並び、この実演も披露しますし、縁日も開催されます。それに麻雀・茶文化などのコーナーもあります。
写真1左は人民中路から文殊院山門に通じる文殊院街に建てられた文殊坊の牌楼です。この地区の入口に当たります。文殊院街に入り、文殊院山門を過ぎて少し行くと、右(南)に西岳巷の道があります。この辺りには小吃の店が並んでいます。この道に入り歩くと、左(東)への道があります。これが民芸品の店が並んでいる南岳巷です。写真1右は南岳巷の中央から西へと撮ったものです。この道を東へ歩くと東岳巷に突き当たります。その東には工芸品の店が並びます。道を左に取り、東岳巷を北に進むと、文殊院街から続く五岳宮街に突き当たります。東岳巷から右(東)に五岳宮街を少し進むと十字路に出ます。左(北)へ頭福街へと道をとって歩くと、丁字路に突き当たります。そこを右(東)に曲がると、「消え去る木造民家―成都雑感〔5〕―」(2005年6月11日付)で紹介した西珠市街です。
西珠市街を進むと、写真2左の観華青年旅舎(http://www.gogosc.com/jp.asp)が道路の左(北)にあります。大通りである北大街の手前です。ここはシンガポール人・日本人夫妻が2004年に始めたゲストハウスです。写真に見るように、旧来の民家を改造してゲストハウスにしたものです。宿泊費は15元(ドミトリー)から200元(ファミリータイプ・ツィン)となっています。なお、写真の入口左に見えるのが、併設されている旅行社のデスクで、チベット行きをはじめ各種のツァーや切符手配が出来ますし、ゲストハウスの日本語が分かる人が必要に応じ通訳をしてくれます。
観華青年旅舎から道を戻り、頭福街を南に下ると、右(西)への道があります。これが老成都会館です。写真2右は、これを通って、丁字路の手前で東へと老成都会館を撮ったものです。道左奥に老成都民居の門が見えており、これは成都の清代末・民国初の民家(府院建築)を再現したものです。家屋内部が公開されて、家具なども再現して往事の様子が分かるようにしています。また、写真奥の方にコンクリート建てのアパートが見えますが、これは頭福街の旧前からものです。注意してご覧になれば分かりますが、実はコンクリートの外壁の外に、この地区と景観をあわせるために同色の装飾が付けられました。ここはそのまま旧来からの住民が住んで生活しています。
丁字路を左(南)に文殊院巷(右―西側に文殊院の赤の塀が続く)を歩くと、五岳宮街にぶつかります。ここから東へと五岳宮街を撮ったのが写真3左です。ゴミ箱も木製で景観にとけ込むようにしていることがお分かりでしょう。また歩行者専用となっています。しかし写真のように自転車は規制されていません。これは文殊院街・五岳宮街が旧来から生活道路として活用されているためではないからかと思います。なお、五岳宮地下には駐車場が設置されて、老成都会館側から入れます。以上で、文殊坊は終わりです。
ところで、文殊院(入場料5元)は唐代大業年間(605~17年)に創建されたと伝える成都でもっとも古い古刹です。明末に焼失破壊され、清代前期の1697(康煕36)年に再建され、その後増改築されて、現在の規模になったのは清後期の19世紀前期です。敷地面積は5.7ha強と広く、境内は都会の真ん中にもかかわらず静粛です。写真3右は1991年に建立された高さ21mの鉄製の千仏和平塔です。名前の通り外壁に1000体の仏像がはめられています。写真4左は中国の寺院の中心である大雄宝殿(金堂)です。殿内には釈迦牟尼仏が安置されています。写真4右は山門を入った最初の建物、三大士殿に掲示してある文殊院案内図です。このように、境内には仏閣をはじめ、庭園や茶園(茶座)・精進料理レストランがあり、ゆったりと時間を過ごせます。茶は5元からです。麻雀好きの成都人ですが、ここでは麻雀をする人は見かけませんでした。これは机が狭いためかも知れません。なお、本院のトイレは大の方が中国式ですが、すべてTOTO製のを使用しており、もちろん個室でレベルの高いものです。この点からも、成都市が国際的な観光都市を目指していることがうかがえます。
最後に文殊坊の最寄りのバス停は人民中路側が万福橋站(16・55・75・99路)で、北大街側が省市政務中心〔草市街〕站(1・18・302・902路)です。
追記 上記で紹介しました観華青年旅舎は、2007年12月、再開発に伴い、全面的に―一環路北四段211号―に移転し、「観華花園青年旅舎」となりました。詳しくは旅舎の上記のWebサイトをご覧ください。新旅舎は一環路北四段と三友路・馬鞍路との交差点の一環路(西)より50mのところです。旧旅舎から見ると、北東約1.5km余といった位置です。(2007年12月24日) 追記2 昨年5月1日にオープンした麻雀博物館(白雲寺 五岳宮街・頭福街の十字路東南角)は久しく開いていませんでしたが、本日見たところ開館していました。入場料は30元です。(2009年3月10日) 11月14日 901路「成都観光」オープン二階建てバス―成都雑感〔28〕―11月、成都市内バスに新たな観光路線が生まれました。901路の成都旅游集散中心站(旧新南門バスステーション)~金沙遺址站(バス停)と902路の成都旅游集散中心站~熊猫(パンダ)生態公園站との二つです。
今回は初めてのオープン二階建てバス(成都市製造)を走らせた901路を紹介します。
バス停(経路)は次の通りです。成都旅游集散中心站~春熙路南口站〔東大街〕~塩市口站~要都站〔南郊〕~武侯祠站~人民公園站〔小南街北〕~支磯石站~琴台路站〔通恵門〕~青羊宮站~古玩(骨董)市場站〔送仙橋〕~杜甫草堂站〔草堂寺〕~金沙車站~金沙遺址站の20㎞です。以上、武侯祠・青羊宮・杜甫草堂・金沙遺址博物館(12月開館予定)の市内主要観光地と春熙路・塩市口の中心商業街とを巡っています。
運賃は3元で、一日乗車券(5回まで乗車可能)10元もあります。始発は成都旅游集散中心站が8時半、金沙遺址站が9時45分で、終車は成都旅游集散中心站が18時、金沙遺址站が18時半となっています。この間、20便が出ます。所要時間は54分程度となっています。
では、901路の一端を写真でお見せします。写真1左は金沙遺址站前でのバス全景です。二階建てバスで、2階部がオープンになっていることがお分かりでしょう。車体2階の前部に四川省のシンボルのパンダのイラストが描かれています。また、車体後部に大きく描かれているのが金沙遺跡出土の代表的遺物「太陽神鳥」です。なお、バス後方が博物館入口です。写真1右はその2階部(40席)を後方座席から撮ったものです。右に黄色のカバー(雨天用)が掛けてあるところが階段です。旧来の二階建てバスとことなり、階段は前方部の右側にあります。この一体は住宅街として開発された(金沙遺跡は開発工事中の2001年に発見)ところで、まだ開発途上です。また、右の博物館と対面した道路左側の2階建ては商店・レストランなどが入る予定でしょうが、現時点では無人です。
写真2左は車中より見た武侯祠入口です。先頭部座席より撮りました。黄色の保護棒が前面ガラスに反射して映り混んでいるのがお分かりでしょう。写真2右は成都市のへそともいう天府広場です。中央右に小さく白く見えるのが毛沢東像です。現在、広場はご覧のように工事中です。これは1号地下鉄線の駅(将来、2号線とのターミナルに)と地下商店街建設のものです。車内には若い女性の車掌が乗車しており、車内案内として、バス停ごとに観光案内をしており(もちろん中国語)、それにバス停の英語録音案内もあり(最近、一部の市内路線ではバス停の英語録音案内が)、観光路線であることをアピールしています。
写真3左は1階降車口左より前方部を撮ったものです。1階は窓が密閉ですから、エアコン付です。それにご覧のようにデジタルモバイル液晶テレビ付です。これは非エアコン車にも入り、市内主要路線から郊外路線にも広がり、ごく普通のものとなりました。また、座席は2階と異なりクッション付のものです(2階はおそらく雨などで濡れることを考慮しているのでしょう)。
最後の写真3右は成都旅游集散中心站を発車するバス全景です。後方に見えるのが902路のバスです。運賃は2元です。赤の上着を着ている人々はこの観光路線の係員で、運転手・車掌も同じ上着を着ており、共通の制服です。なお、バス停の後方に見える建物が交通飯店です。すなわち、901・902路の成都旅游集散中心站は交通飯店の入口のところ、川岸に位置しているのです。
以上ですが、写真1左のみが11日(土)に撮ったもので、他は13日(月)のものです。実は11日に乗車しようとしたのですが、休日のためか、子供連れの家族も多く(中にはマイカーで来る組もありました)、2階席は満席となり、乗車はせずに、この日はバス外観を撮ることにしたのです。そして、休日を避け、13日(月)の昼間に乗車して、バス内部と車中風景を撮ったのです。いずれの日も客は成都市民のようで、観光客らしき人は見かけませんでした。まだ、始まったばかりで、外地の人には知られていないのでしょう。それでも、平日にもかかわらず2階はほぼ満席状態で、観光地ではない途中バス停でも、このバスを見て乗る人もいて、初物として市民にもなかなか人気のように感じました。なお、ここにお見せしているのはフォト「成都・901路『観光』オープン二階建てバス」に載せた一部です。 |
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