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歴史と中国

日本中世史と四川(成都)
July 05

2008年度前期記事目次

  2008年度前期(1月~6月)の記事目次を掲載します。なお、前回までの記事目次は「ブログ開設1周年記念・記事目次」(20051124日)、「2005年度後期記事目次」(同年1231日)、「2006年前期記事目次」(2006年6月30日)、「2006年度後期記事目次」(同年1231日)、「2007年度前期記事目次」(2007年6月30日)、「2007年度後期記事目次」(同年1231日)です。

 

01.06 寛巷子―成都雑感〔55〕―

01.12 冬休み帰国

03.02 成都に戻る

03.06 成都イトーヨーカドーのエレベーター表示―成都雑感〔56〕―

03.08 成都伊勢丹に「とんかつ和幸」オープン―成都雑感〔57〕―

03.17 本日の春熙路―成都雑感〔58〕―

04.04 中国の祝日―中国雑感〔1〕―

04.14 龍馬古城宝墩遺跡―成都雑感〔59〕―

04.30 停電のイトーヨーカドーと成都伊勢丹―成都雑感〔60〕―

05.01 メーデーの成都市人民公園「鶴鳴茶社」―成都雑感〔61〕―

05.12 成都市地震で揺れる―成都雑感〔62〕―

05.14 四川汶川大地震3日目の西南交通大学九里堤キャンパス―成都雑感〔63〕―

05.15 四川汶川大地震4日目の西南交通大学九里堤キャンパス―成都雑感〔64〕―

05,16 四川汶川大地震5日目の西南交通大学犀浦キャンパス―成都雑感〔65〕―

05.20 四川汶川大地震9日目の西南交通大学九里堤キャンパス―成都雑感〔66〕―

05.21 四川汶川大地震10日目の西南交通大学キャンパス、事実上の休講へ―成都雑感〔67〕―

05.31 中日“四川汶川大地震“災害修復与重建技術交流研討会―成都雑感〔68〕―

06.10 「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その1)―歴史雑感〔8〕―

    一、東山道軍の交名一覧

06.17 寛窄巷子歴史文化保護区修復竣工オープン―成都雑感〔69〕―


July 01

続・日本文化分野での卒業論文題目―成都雑感〔70〕―

 6月30日、卒業式も終え、4年生は学巣を飛び立っていきます。そこで、「日本文化分野での卒業論文題目」(2005年5月17日付)から3年経ちましたので、これ以降の論文題目を付け加えて、改めて私の指導担当した卒業論文全題目を提示します。7年間で、全38編(2002年7編・2003年6編・2004年5編・2005年6編・2006年4編・2007年5編・2008年5編)です。

 

〈経済関係〉

戦後日本経済の高度成長の要因としての科学技術

日本における終身雇用制

松下電器の分析から終身雇用の未来を見る―改革は破壊ではなく、再伸である―

バブル経済下の日本経済

90年代後半の日本単身世帯の消費行動

90年代後半以降の日本の対アセアン貿易政策の変化

〈経済文化関係〉3編

伝統的心理の日本の企業文化への影響※

日本の企業倫理と社会的責任※

日本企業文化の儒教思想とその利害※

〈社会関係〉8編

「家」から見た日本人の集団意識

戦後日本の家庭構成の変化

現代中日女性地位の比較

中日高齢者生活の比較

日本人の清潔と清潔感

現代日本人の自殺について※

日本のコメ保護政策※

日本の自然災害と日本人の性格について※

〈教育関係〉1名

日本の小学校教育

〈宗教・思想関係〉6編

仏教思想の日本人生活への影響

中日死生感の比較

盂蘭盆会と日本人の死生観

戦後における日本人の宗教意識変容について

江戸時代の儒学思想とその影響

中江兆民の見る西洋自由民主主義とその儒学の必然性※

〈文学関係〉3編

『個人的な体験』から見た大江健三郎の心霊の遍歴

中国での村上春樹ブームの原因の考察―『国境の南、太陽の西』をめぐって―

夏目漱石の「こころ」から見た「自己本位」思想※

〈マンガ関係〉2編

文化としての日本マンガ

中国青少年に対する日本漫画の影響※

〈言語文化関係〉4編

日本の若者語考

中日外来語の比較

日本語色彩語の研究※

日本語における婉曲表現とその文化的背景※

〈その他〉5編

中日古典庭園芸術の比較

中日酒文化の比較

現代日本の歌舞伎と中国の京劇※

曹操と織田信長の比較※

東山魁夷の作品における日本的輝く生命の姿※

 

以上です。※は2006年以降の卒論題目です。なお、この年から経済関係が論題から外されたため、この関係が経済文化関係となりました。ともあれ、時代的には古代から現代、分野的には経済・社会・思想・歴史・文学・言語などと多岐にわたっており、学生の関心の広さを示しています。

June 17

寛窄巷子歴史文化保護区修復竣工オープン―成都雑感〔69〕―

 「寛巷子―成都雑感〔55〕―」(2008年1月日付)で紹介した寛窄巷子歴史文化保護区の修復が一応なり、6月14日(土)、中国文化遺産日に合わせ、成都市は「守望家園―寛窄巷子歴史文化保護区修復竣工并対公衆開放」儀式を行い、市民に開放されました。四川汶川大地震から1か月あまりを経て、成都市観光の再開を盛り上げるイベントでもありました。この寛窄巷子は、成都市中心の天府広場から西に約1キロ余、蜀都大道の金河路の北に位置し、長順上街(東)・下同仁路(西)に東西を挟まれた、北から順に寛巷子・窄巷子・井巷子という3本の小街路からなります。この辺り一帯は清朝時代に満州八旗の居住したところで、少城と称されており、清朝時代の支配層地区で、現在でも清朝末期・中華民国期の四合院造の住居などが残っています。いわば昔の成都を偲ばせる街です。ここは2004年から新観光スポットとして再開発されると同時に、街並み保存して保護を加えたのです。この点で、武侯祠隣の錦里とは異なります。なお、最寄りのバス停は長順上街站(627093163340路)です。

 この日はちょうど4年生の卒業論文答弁会と重なりましたので、翌々日の16日に出かけてみました。月曜という平日にもかかわらず、市民で賑わっていました。保存・保護と同時に、観光スポットとしても再開発されて、レストラン・茶館・喫茶店・土産物店などが軒を連ねて開店しました。まだ、窄巷子などでは工事が完成しておらず、これから開店する店もかなりあります。その一つが、武侯祠隣の錦里にも出店している、スターバックスコーヒー店です。錦里と比較してみると、こちらの方が広くゆったりとしていますが、今のところ小吃類は少なく、これらの食べ歩きは劣ります。

 さて、写真1左は、長順上街から寛巷子へ入って少し行ったところ、南面の「寛巷子」額のかかった民家です。ここのように門扉には彩色された絵が修復再現されています。

 さらに少し行くと、北面に「徳門仁里」とある四合院造り2階屋があります。ここは、李家の民居で、家具調度などを整え、1935年当時の様子を再現しています。写真1右はこの様で、これは2階奥東側の「長輩房」、すなわち李家主人の父の部屋を再現したもので、ご覧のように成都人の好む麻雀を打っているところです。主人夫婦と父の3人麻雀です。

 写真2左は、その茶を喫させるところの一つ、「茶馬古道」です。これは李家の四合院とは異なり庶民の2階屋で、再開発以前から住民が営業していたお店です。このように、路上で竹椅子にゆったりしながら茶を喫して、成都庶民の生活が味わえるところです。別のところでは、やはり麻雀を打つグループを見かけました。なお、茶馬古道とはチベットへの古の街道で、茶を運搬したことから名がおきました。

 最後の写真2右は、窄巷子の西側辺の北に面する民家です。ここは現に住民がおり、門横の塀には、「参観謝絶」の掲示が出ています。過半の民居は店や展示館へと変わりましたが、このように少数ながらそのまま居住を続けている家もあり、生活臭もあるのです。以上のほか、フォトアルバム「寛窄巷子」には多数の写真を載せてありますから、これもご覧ください。

 なお、寛巷子にはバックパッカー御用達のゲストハウスとして名高い、「龍堂客棧」(2002年開業)があります。

 

 080616寛窄巷子・「寛巷子」 080616寛窄巷子・「徳門仁里」(李家)長輩房

 

 080616寛窄巷子・「茶馬古道」 080616寛窄巷子・民居

 

 





June 10

「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その1)―歴史雑感〔8〕―

一、東山道軍の交名一覧

 1189年、鎌倉幕府は奥州平泉藤原政権を打破すべく、全国動員をかけて奥羽に侵攻した。侵攻軍は三手に分かれて、それぞれ東海道軍(大将軍千葉常胤・八田知家)は常陸国から陸奥国浜通へ、北陸道軍(大将軍比企能員・宇佐美実政)は越後国から出羽国念珠ヶ関へ、そして大手軍たる東山道軍は鎌倉殿源頼朝自身が率いて陸奥国白河関へと向かったのです。この主力たる東山道軍に関しては、『吾妻鏡』文治五年七月十九日条に、頼朝の鎌倉進発の「御供輩」144名の交名が載せられています。これに先陣を承った畠山重忠を加えれば、当該期の鎌倉幕府軍主力の構成が理解できることになります。すでに、「武蔵武士足立遠元(その6)―歴史雑感〔6〕― 六、頼朝期における遠元(中)―奥州兵乱と第一次建久上洛―」((20051225日付)において、本ブログでは足立遠元と安達盛長に関連して簡単な分析をおこなっています。そこで、改めて、本交名全体を分析対象として、1189年段階における鎌倉幕府軍の構成を考えてみたいと思います。

 まず、『吾妻鏡』同日条に載せる交名を先頭から順に示します。最初に、『吾妻鏡』記載名を、括弧内に当人の名字実名と出身国出自を記してあります。

 

1.武蔵守義信(平賀義信・義光流信濃源氏)

2.遠江守義定(安田義定・義光流甲斐源氏)

3.参河守範頼(源範頼・頼朝異母弟)

4.信濃守遠光(加々美遠光・義光流甲斐源氏)

5.相摸守惟義(大内惟義・義光流信濃源氏)

6.駿河守広綱(源広綱・頼光流馬場源氏)

7.上総介義兼(足利義兼・義国流下野源氏)

8.伊豆守義範(山名義範・義国流上野源氏)

9.越後守義資(安田義資・義光流甲斐源氏)

10.豊後守季光(毛呂季光・藤原季仲子孫)

11.北条四郎(北条時政・伊豆国北条氏族)

12.同小四郎(北条義時・伊豆国北条氏族)

13.同五郎(北条時房・伊豆国北条氏族)

14.式部大夫親能(藤原親能・文吏僚)

15.新田蔵人義兼(新田義兼・義国流上野源氏)

16.浅利冠者遠義(浅利長義・義光流甲斐源氏)

17.武田兵衛尉有義(武田有義・義光流甲斐源氏)

18.伊沢五郎信光(伊沢信光・義光流甲斐源氏)

19.加々美次郎長清(加々美長清・義光流甲斐源氏)

20.同太郎長綱(加々美長綱・義光流甲斐源氏)

21三浦介義澄(三浦義澄・相模国三浦氏族)

22.同平六義村(三浦義村・相模国三浦氏族)

23.佐原十郎義連(佐原義連・相模国三浦氏族)

24.和田太郎義盛(和田義盛・相模国三浦氏族)

25.同三郎宗実(和田宗実・相模国三浦氏族)

26.岡崎四郎義実(岡崎義実・相模国三浦氏族岡崎流)

27.同先次郎惟平(岡崎惟平・相模国中村氏族土肥)

28.土屋次郎義清(土屋義清・相模国三浦氏族岡崎流)

29.小山兵衛尉朝政(小山朝政・下野国太田氏族小山流)

30.同五郎宗政(長沼宗政・下野国太田氏族小山流)

31.同七郎朝光(結城朝光・下総国太田氏族小山流)

32.下河辺庄司行平(下河辺行平・下総国太田氏族下河辺流)

33.吉見次郎頼綱(吉見頼綱・武蔵国)

34.南部次郎光行(南部光行・義光流甲斐源氏)

35.平賀三郎朝信(平賀朝信・義光流信濃源氏)

36.小山田三郎重成(稲毛重成・武蔵国秩父氏族畠山流)

37.同四郎重朝(榛谷重朝・武蔵国秩父氏族畠山流)

38.藤九郎盛長(安達盛長・武蔵国足立氏族)

39.足立右馬允遠元(足立遠元・武蔵国足立氏族)

40.土肥次郎実平(土肥実平・相模国中村氏族土肥流)

41.同弥大郎遠平(土肥遠平・相模国中村氏族土肥流)

42.梶原平三景時(梶原景時・相模国鎌倉氏族梶原流)

43.同源太左衛門尉景季(梶原景季・相模国鎌倉氏族梶原流)

44.同平次兵衛尉景高(梶原景高・相模国鎌倉氏族梶原流)

45.同三郎景茂(梶原景茂・相模国鎌倉氏族梶原流)

46.同刑部丞朝景(梶原朝景・相模国鎌倉氏族梶原流)

47.同兵衛尉定景(梶原定景・相模国鎌倉氏族梶原流)

48.波多野五郎義景(波多野義景・相模国波多野氏族)

49.波多野余三実方(波多野実方・相模国波多野氏族)

50.阿曽沼次郎広綱(阿曽沼広綱・下野国淵名流足利氏族)

51.小野寺太郎道綱(小野寺道綱・下野国首藤氏族)

52.中山四郎重政(中山重政・武蔵国秩父氏族?)

53.同五郎為重(中山為重・武蔵国秩父氏族?)

54.渋谷次郎高重(渋谷高重・相模国秩父氏族渋谷流)

55.同四郎時国(渋谷時国・相模国秩父氏族渋谷流)

56.大友左近将監能直(大友能直・相模国)

57.河野四郎通信(河野通信・伊予国)

58.豊島権守清光(豊島清光・武蔵国秩父氏族豊島流)

59.葛西三郎清重(葛西清重・下総国秩父氏族豊島流)

60.同十郎(下総国秩父氏族豊島流)

61.江戸太郎重長(江戸重長・武蔵国秩父氏族江戸流)

62.同次郎親重(江戸親重・武蔵国秩父氏族江戸流)

63.同四郎重通(江戸重通・武蔵国秩父氏族江戸流)

64.同七郎重宗(江戸重宗・武蔵国秩父氏族江戸流)

65.山内三郎経俊(山内経俊・相模国首藤氏族山内流)

66.大井二郎実春(大井実春・武蔵国紀氏)

67.宇都宮左衛門尉朝綱(宇都宮朝綱・下野国宇都宮氏族)

68.同次郎業綱(宇都宮業綱・下野国宇都宮氏族)

69.八田右衛門尉知家(八田知家・常陸国宇都宮氏族)

70.八田太郎朝重(八田朝重・常陸国宇都宮氏族)

71.主計允行政(二階堂行政・文吏僚)

72.民部丞盛時(平盛時・文吏僚)

73.豊田兵衛尉義幹(豊田義幹・常陸国大掾氏族)

74.大河戸太郎広行(大河戸広行・武蔵国太田氏族大河戸流)

75.佐貫四郎広綱(佐貫広綱・上野国淵名氏族佐貫流)

76.同五郎(上野国淵名氏族佐貫流)

77.同六郎広義(佐貫広義・上野国淵名氏族佐貫流)

78.佐野大郎基綱(佐野基綱・下野国淵名氏族足利流)

79.工藤庄司景光(工藤景光・伊豆国工藤氏族工藤流)

80.同次郎行光(工藤行光・伊豆国工藤氏族工藤流)

81.同三郎助光(工藤助光・伊豆国工藤氏族工藤流)

82.狩野五郎親光(狩野親光・伊豆国工藤氏族狩野流)

83.常陸次郎為重(伊達為重・常陸国伊佐氏族)

84.同三郎資綱(伊佐資綱・常陸国伊佐氏族)

85.加藤太光員(加藤光員・伊勢国)

86.同藤次景廉(加藤景廉・伊勢国)

87.佐々木三郎盛綱(佐々木盛綱・近江国佐々木氏族)

88.同五郎義清(佐々木義清・近江国佐々木氏族)

89.曽我太郎助信(曽我助信・相模国)

90.橘次公業(小鹿島公業・伊予国)

91.宇佐美三郎祐茂(宇佐見祐茂・伊豆国工藤氏族宇佐美流)

92.二宮太郎朝忠(二宮朝忠・相模国中村氏族)

93.天野右馬允保高(天野保高・伊豆国)

94.同六郎則景(天野則景・伊豆国)

95.伊東三郎(伊豆国工藤氏族伊東流)

96.同四郎成親(伊東成親・伊豆国工藤氏族伊東流)

97.工藤左衛門祐経(工藤祐経・伊豆国工藤氏族宇佐美流)

98.新田四郎忠常(新田忠常・伊豆国)

99.同六郎忠時(新田忠時・伊豆国)

100.熊谷小次郎直家熊谷直家・武蔵国私市党)

101.堀藤太(伊豆国)

102.同藤次親家(堀親家・伊豆国)

103.伊沢左近将監家景(伊沢家景・文吏僚)

104.江右近次郎(大江久家・文吏僚)

105.岡辺小次郎忠綱(岡部忠綱・駿河国)

106.吉香小次郎(駿河国)

107.中野小太郎助光(中野助光・信濃国)

108.同五郎能成(中野能成・信濃国)

109.渋河五郎兼保(渋河兼保・上野国)

110.春日小次郎貞親(春日貞親・信濃国)

111.藤沢次郎清近(藤沢清近・信濃国)

112.飯富源太宗季(飯富宗季・元平家家人)

113.大見平次家秀(大見家秀・伊豆国)

114.沼田太郎(相模国)

115.糟屋藤太有季(糟屋有季・相模国)

116.本間右馬允義忠(本間義忠・相模国)

117.海老名四郎義季(海老名義季・相模国)

118.所六郎朝光(佐藤朝光)

119.横山権守時広(横山時広・相模国横山党)

120.三尾谷十郎(武蔵国)

121.平山左衛門尉季重(平山季重・武蔵国西党)

122.師岡兵衛尉重経(諸岡重経・武蔵国秩父氏族)

123.野三刑部丞成綱(小野成綱・武蔵国猪俣党?)

124.中条藤次家長(中条家長・武蔵国横山党)

125.岡辺六野太忠澄(岡辺忠澄・武蔵国猪俣党)

126.小越右馬允有弘(越生有弘・武蔵国児玉党)

127.庄三郎忠家(庄忠家・武蔵国児玉党)

128.四方田三郎弘長(四方田弘長・武蔵国児玉党)

129.浅見太郎実高(浅見実高・武蔵国児玉党)

130.浅羽五郎行長(浅羽行長・武蔵国児玉党)

131.小代八郎行平(小代行平・武蔵国児玉党)

132.勅使河原三郎有直(勅使河原有直・武蔵国丹党)

133.成田七郎助綱(成田助綱・武蔵国)

134.高鼻和太郎(武蔵国)

135.塩屋太郎家光(塩谷家光・武蔵国児玉党)

136.阿保次郎実光(安保実光・武蔵国丹党)

137.宮六傔仗国平

138.河勾三郎政成(河匂政成・武蔵国猪俣党)

139.同七郎政頼(河匂政頼・武蔵国猪俣党)

140.中四郎是重(中原惟重・文吏僚?)

141.一品房昌寛(僧侶)

142.常陸房昌明(僧侶)

143.尾藤太知平(尾藤知平)

144.金子小太郎高範(金子高範・武蔵国村山党)

 

以上、144名です(『吾妻鏡』は4名列記で記しています)。交名の前に、地の文として、従軍5騎―長野重清(弟)・大串重親(武蔵国横山党)・本田近常(武蔵国丹党)・榛沢成清(武蔵国丹党)・柏原太郎(武蔵国丹党)―らを率いる「先陣」畠山重忠(武蔵国秩父氏族畠山流)が記してあります。この先陣に続いて、頼朝自身が進み、後に供輩が続き、鎌倉出陣の総勢千騎となっています。

 畠山重忠を含め145名の分析においては、詳細な考証を避け、結論を主体として述べていきます。

(続く)

May 31

中日“四川汶川大地震”災害修復与重建技術交流研討会―成都雑感〔68〕―

 5月31日(土)、西南交通大学鏡湖賓館多功能庁において、「中日“四川汶川大地震”災害修復与重建技術交流研討会(ワークショップ)」が行われました。9時過ぎに開会され、昼食を挟んで、予定時間を超え、1910分過ぎに閉会しました。日中から百名を超える参加者がありました。午前に6人・午後に10人と計16人の報告があり、日本側は5人・中国側11人でした。今回のワークショップは、本地震に伴い、日本で日本土木学会・建築学会・地震学会・地質学会など8学会合同の「四川汶川大地震復旧技術支援連絡会議」の先遣調査団として、5月28日~6月1日の予定で、地震被災地の各種調査のため成都入りした、団長早大教授浜田政則氏以下の調査団と中国側の関係研究機関の専門家との合同検討会として行われたものです。これは復旧作業に対するこれからの日本側の専門的支援の第一歩となるものです。

 会場のホテル前には、写真1左の如く、本ワークショップ歓迎を示す掲示が出されました(右は本ホテルに調査団が宿泊しているので、その歓迎です)。オープニングでは全員が1分間の黙祷をした後、大学・成都市の祝辞となり、写真1右に見るように、調査団団長浜田氏の祝辞により、オープニングを終えました。

 成都市計画局の技師長厳春風氏の「成都市5.12震災後の復旧技術原則の研究」と題する報告で、ワークショップに入りました。写真2左は、午前最後の報告で、東大地震研究所教授纐纈一起氏の「2008年四川地震の引き起こした強震」と題するものです。

 午後は、西南交通大学土木工程学院院長李喬教授の「橋梁構造地震災害分析と提案」と題する報告で始まりました。実は、西南交大はその前身である唐山工業専門学校(原山海関北洋鉄路学院)時代から、土木工学の先進校としての伝統があり、この関係からも日本の学会と繋がりがあり、今回の調査団の担当は当院がしています。写真2右は、午後の途中休憩後、場所を移して2階より撮ったもので、成都市山地災害研究所研究員の何思明氏の「汶川の典型的地滑りの紹介」と題する報告で、見にくいでしょうが、スクリーンに地滑りの写真が写っているのがお分かりでしょうか。最後に、団長の浜田教授の総括的な締めの言葉で、本ワークショップを終えました。

 以上、本ワークショップは、中国側は地震災害の現地調査結果の報告を主として、日本側は主として日本における震災復旧の実例を主として報告しました。日中双方への翻訳時間の関係もあり、報告で時間が手一杯となり、討議に至らなかったことは残念なことです。この意味で、焦点を絞った問題点とそれに関する報告で、討議時間が取れればよかったとも思っています。しかし、これほどの大地震ともなると問題点も多岐にわたり、わずか2日間の調査日時では、本ワークショップにこれを絞るのは酷かも知れません。いずれにしても、日中両国の専門家がどうどうしてかかる調査と検討会を開けたことは、今後の震災復旧にとって、よき道を開くものと思っています。

 

  080531中日“四川地震”災害復旧ワークショップ 080531中日“四川地震”災害復旧ワークショップ・団長浜田政則教授

  080531中日“四川地震”災害復旧ワークショップ・纐纈一起教授 080531中日“四川地震”災害復旧ワークショップ・何思明研究員

 

〔付記〕  西南交大は中華人民共和国建国以来の2度の大地震、1976年の唐山地震と今回の四川汶川大地震を経験した唯一の高等教育機関です。1986年創設の山海関北洋鉄路官学堂を出発点とする西南交大は、その後唐山に移転し、合併などの幾多の変遷はありましたが、1952年、唐山鉄道学院として独立します。この間一貫して基幹キャンパスは唐山です。そして、1972年、四川省の峨眉山麓に全キャンパスを移転し、現名称の西南交通大学となります。しかし、移転業務の完了を前に、唐山キャンパスが1976年の唐山地震に見舞われたのです。もちろん、これで壊滅的被害を受け犠牲者を出しました。今回の地震も、被害こそ軽微でしたが、やはり地震に見舞われたことに変りはありません。まさに、このような経験を持つ機関はほかにないと思います。それに、中国の土木工学(橋梁)の第一人者であった茅以升(19961989)は本校の卒業生であり教授でもありました。これらの歴史的環境を鑑みますと、本学が今回の地震における復興活動においてその力量を尽くせるものと信じます。(2008年6月1日)

 




May 21

四川汶川大地震10日目の西南交通大学、事実上の休講へ―成都雑感〔67〕―

 キャンパス内には相変わらずテントが溢れ、この数を減らしていません。

 本日(21日)、大学は「西南交通大学整本学期教学划的通知」と題する通知を出し、事実上4週間休講にします。具体的にいうと、「第1に、3年生以下は、夏休みの実習〔実践〕期間(本来7月初旬)を、5月26日(月)~6月22日(日)の4週間に前倒しし、その後、23日(月)から講義を再開する。第2に、4年生は本来の予定に従って、卒業論文を完成、卒業論文答弁会を行う。そして、2223日は休講を継続する」ということです。したがって、3年生以下は実習という名目での事実上の休講ということになります。このため、本日午後、日本語学科の学生は招集され、この期間の注意事項を申し渡され、連絡先を全員登記しました。この措置は、すでに一部の学生が離校するなどし、学内に不安感が広がっているなど、正常な教育条件に欠ける面がある、と大学当局が判断した結果と思います。いわば、89年の6月以降にとられた措置と類似したものとなっています。まさに、異常事態といえます。


May 20

四川汶川大地震9日目の西南交通大学九里堤キャンパス―成都雑感〔66〕―

 すでに地震発生から9日目(20日)に入りました。報道の如く、昨日1428分、中国全土では地震犠牲者への黙祷を行いました。本学でのサイレンは約1分前には鳴り出し慌てさせましたが、全学が黙祷しました。

 さて、第2週に入り、成都市内は落ち着いているように見えます。インフラ・住居などのハード面は確かにそうです。基本的に問題ありません。しかし、ソフト、心的な面はまだまだです。これを如実に現したのが昨晩からの出来事です。

 昨晩23時過ぎ、宿舎の服務員がドアを叩き、1920日に余震があるから避難せよと告げました。これから少し経ち、外事処副処長らが来、1920日にM6~7の余震があるから戸外へ避難せよと告げました。すでに、四川テレビのテロップで、四川地震局のこの余震注意喚起と安全対策をとるように、との情報に接していましたので、この件と分かりました。地震当日と同様に、自己責任で自室に残りました。さらに、日本語学科主任からの電話で、全学休講と告げられました。寝る前(20日1時)に、外に出てみると、宿舎前の中庭には欧米の留学生たちが立ったまま退避していました。

 本日は休講となり、午前、キャンパス内を歩くと、地震発生翌日以上にテントが目立ち、道路には駐車中の車が目立ち、中で過ごす人も目立ちました。まだ多くの学生が大学の設置した仮設テント内で布団の上で過ごしていました。場所によっては、どこから持ち込んだのか知りませんが、地面にレンガを敷き詰め、この上に蓆・布団を敷いていました。

 この余震注意報による退避騒ぎは、成都市全域に発生し、多くの市民が戸外で過ごし、市中心広場の天府広場は退避した市民のテントで埋まりました。これのみならず、昨晩の卒業生からの電話で、遠く重慶市でも発生したことを知りました。

 本日の新聞『成都商報』には、余震関係の記事として、1面に20日付「成都市抗震救災指揮部・通告」を載せ、この通告で、余震情報を告げるとともに、この余震で成都市内に大きな被害は与えないから、市民は慌てる必要がない、との専門家意見を添えています。さらにその下に、専門家の余震に関する解説談話を載せて、安心を促しています。また、別面では住居の安全策を解説し、「貼紙法」という、壁にひび割れなどの被害を受けた建物が余震などでこれ以上危険であるかどうかの判別法を述べています。結論として、成都市内の建物の絶対多数は安全であるとしています。

 以上の騒ぎは、未だ成都市民が地震に対して恐怖心を抱えており、人心が安定していないことを示しています。今回の地震で、中国中央テレビ(CCTV)はじめ、四川・成都テレビはいわゆる検閲なしの実況中継体制をとっています。余震情報にしても、発表されます。しかし、市民はこのような報道に接したことがありません。統制されていた報道が急に統制から放たれたことに、むしろ戸惑いの色を見せているといっていいでしょう。まだ、報道を心から信じられないといったところです。このことと、地震に対する基本知識の欠如から、疑心暗鬼な過剰反応となると思います。これは市民のみならずより上の層でも同様なのです。

 最後に、本余震に関する、新華社サイトでの報道原文を載せておきます。

 

新華網成都5月19日電 據四川省地震局消息,汶川余震活動水平為6-7級左右,5月19日至20日汶川地震區附近余震發生的可能性較大。有關公告提醒,當地各級政府要視情況做好地震應急預案,廣大群眾要做好防震避震準備。

 

 080520成都商報 003

 

 

〔追記〕  夕方学内を散歩しました。。午前に比して、テント・路上停車ともに増えています。商店の多くはシャッターを下ろし休業中です。しかし、中国ではおなじみの赤・青・白3色の包装用シートを売る店には客が並んでいます。手製テントを作るためです。こうしてみると、今晩も多くの市民・学生が戸外で過ごすことになります。明日も休講です。(18時50分) 

 

 

 




May 16

四川汶川大地震5日目の西南交通大学犀浦キャンパス―成都雑感〔65〕―

 

 本日午後(16日)から犀浦キャンパスで3年生「作文Ⅲ」「日本経済と貿易」の講義あり、出かけました。そこで同キャンパスの四川汶川大地震の影響を写真でお目にかけます。

 写真1左は、正門から左に教学館前に広がる庭の芝生上に張られた学生のテント群です。一昨日に比して減ってはいますがまだまだ多くのテントが張られています。手前に見えるのは宣伝用のパラソルで、後方のテントは梱包用布を利用したお手製のテントです。なお、九里堤キャンパスの仮設テントは本日も健在です。

 写真1右は、1号教学館を入り、中庭にある階段の所です。このゴミは各階で剥離した壁のモルタル・漆喰です。講義再開のため教学の清掃の結果出てきたものでしょう。随所で剥離が起きたことが分かります。

 写真2左は、2階の校舎を結ぶ回廊部分の柱の様子です。次いで、写真2右は、同じく最上階の5階部分です。両者をご覧のように、回廊の柱・校舎の接合部分で、2階では回廊側の柱のモルタルが見事に剥離落下してしまい、5階では剥離で両者の接合に隙間が出来外が見える状態になっています。また、両者とも天井版が相当破損・落下したことが分かります。やはり接合部として振動が厳しかったことが分かります。

 写真でお見せするのは以上です。1号館を見た範囲では写真2左・右がもっとも目に付くものでした。階段部などには壁にひび割れが見えましたが、これもモルタル内部止まりでした。廊下の天井の一部に破損が見られますが、教室内は床部(コンクリート)が天井ともなっているので、壁・天井とも破損は見られませんでした。総じていえば、壁の破損は表面部のみで本体に破損はないようです。柱に関しても写真にみる所を除いて、ほかには祖損は見られませんでした。ガラス窓に関してはまったく破損は見られませんでした。こうしてみると、建物本体に打撃を与える被害は被ってはおらず、被害は表面的なもので、軽微といえるでしょう。なお、学生の話では、被害が最も大きいのは昨年に完成したばかりの図書館だそうです。

 学生の話では、地震当日は授業中で、みな教室を出、あわてて階段を駆け下り、外に逃げ出したとのことです。その後、戸外で一夜を明かし、ほとんど眠れなかったとのことです。そして、地震の体験は全員が初めてでした。

 以上、ようやく大学もほぼ正常化したので、地震関係の記事は、特段のことがない限り、これで終了させていただきます。

 
 080516西南交通大学犀浦キャンパス 080516西南交通大学犀浦キャンパス・1号館
 
 080516西南交通大学犀浦キャンパス・1号館2階  080516西南交通大学犀浦キャンパス・1号館5階